藍野大学について

藍野大学教育理念

藍野大学教育理念PHILOSOPHY OF EDUCATION

校法人藍野大学の教育理念で、ラテン語で書かれています。
本大学ではこれを「病める人々を医やすばかりでなく慰めるために」と訳しています。
文法的に説明しますと、“salūtī” は“salūs(健康・救い)”の、”sōlātiō”は“sōlātium(慰め)”の単数与格です。与格とは、所有格とか目的格とかと同じ名詞の格で、「~に」にあたります。”et”は”and”です。 ”aegrōrum”は”aeger(病人・患者)”の複数属格で、属格とは英語の所有格にあたり、「~の」を意味します。英語に直訳しますと、”to the healing and to the consolation of the ill”となります。

さてこの言葉、ヨーゼフ2世の言葉です。ヨーゼフ2世は 18世紀の人で、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝、啓蒙専制君主の一人です。あのマリー・アントワネットのお兄さんでもあります。母マリア・テレジアと共同統治を行い、母の死後は急進的な諸改革を行うも、動揺をもたらし、成功しませんでした。でもその改革理念は、「ヨーゼフ主義」と呼ばれ、その後のオーストリアにおける改革運動に影響を与えました。
また文化的な側面にも心を配り、モーツァルトを宮廷音楽家として雇っていたことでも知られ、市民なら誰でも入れるウィーン総合病院を開設したり、ハプスブルク家の領地の一部に大きな公園(プラーター公園)を造り、無料で開放したりして市民から喜ばれました。ウィーン総合病院は現在はウィーン大学付属病院となっていますが、そのアルザ通りからのメインエントランスにかかる銘板と、敷地内に建つヨーゼフ 2 世の銅像が手にする書に、”Saluti et solatio aegrorum”の文字が刻まれています。

藍野大学周辺歴史散歩HISTORICAL STROLL IN THE SURROUNDING AREA

地名としては『和名抄』(平安中期)の「安威郷」にちなむ。古来このあたりを「あい」といい、阿為神社が今もある他、「安井」、「阿威」、「阿井」など表記がいくつかある。「藍」もその一つで、『古事記』に「三嶋の藍の御陵」、『日本書紀』には継体天皇を「藍野陵に葬りまつる」との記述がある。


継体天皇陵

継体天皇陵

藍野大学に隣接する太田茶臼山古墳は前方後円墳で、その規模は全長226m、前方部の幅は147mで高さは約20m、後円部の径138m、高さは約19mとされる。継体天皇陵として宮内庁が管理しているが、出土した埴輪などから450年頃のものと見られ、531年になくなった継体天皇が実際に葬られているのは、ここから東へ約1.5km離れた今城塚古墳だというのが定説になっている。天皇陵といわれる古墳は大和・河内地方に集中しているが、継体天皇の出身地でもない摂津になぜ陵墓が築かれたのか明らかではない。日本全国に約240ある陵墓古墳は宮内庁により管理され非公開だが、今城塚古墳は指定されなかったため民有地となっていた。つい最近まで壕の一部が釣り堀であったし、今も一般人が入ることができる。継体天皇陵のまわりにはこんもりとした小さな山がいくつか見られるが、これは陪塚(ばいちょう)といい、おもに五世紀頃の近畿で巨大な前方後円墳の周りに配置された古墳である。『古事記』および『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇から数えて五代目あるいは六代目という遠縁で、子どものなかった武烈天皇が崩じた後適当な王位継承者がいなくなったため、中央の諸豪族によって越前から大王に迎えられたとされる。歴代のなかでこのような地方出身の天皇は他におらず、継体はそれまでの王統とは血縁のない近江か越前の一豪族で、実力によって新しい王朝を奪い取り、そしてその子孫が現在に続く天皇家であるという説が出て、学界に大きなインパクトを与えた。


藤原(中臣)鎌足

藤原(中臣)鎌足

『新撰姓氏録』(平安初期)に中臣藍連(あいのむらじ)という複姓氏族名が見られるが、この地は中臣家とゆかりがある。『多武峯縁起』では、大化の改新の中心人物である藤原(中臣)鎌足の墓が初め摂津の安威にあったが、後に大和の多武峯に改葬されたと記されており、江戸時代になってから茨木市西安威の将軍塚という古墳が鎌足の墓にあてられ、大織冠神社として祀られた(『日本書紀』に鎌足が死ぬ前日に天皇から大織冠という最高の地位を授かった記述がある)。これは鳥居が建てられ一見神社の様式をとっているが、社殿があるわけではなく、石段を上りきった所に横穴式の古墳があるだけである。古墳の造築時期と藤原鎌足の死亡時期との間にかなりのズレがあることなど、この古墳を鎌足の墓とするには矛盾が多い。昭和9年には阿武山で京都大学の地震観測施設の建設中偶然古墳が発見された。中には棺があり、しかも信じられないほど良好な保存状態で、副葬されていた玉枕や金糸から「貴人の墓」として大きな反響を呼んだが、諸事情から発掘は中止、調査が不十分なまま埋め戻され、その存在が忘れられてしまう。ところが、昭和57年地震観測所から調査当時の古墳発掘状況を撮影した34枚のX線写真とそのガラス乾板が多数見つかり、またその他に京大考古学教室が独自に保管していた別の14枚の写真も見つかった。これにより昭和9年の発掘当時でははっきりしなかった事実が、次々と明らかになってきた。
被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したことや、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことが判明した。漆の棺に葬られていたことや玉枕を敷いていたことなども考えると被葬者は最上位クラスの人物である。これらの分析結果が鎌足の死因(落馬後に死去)と一致すること、この冠がおそらく当時の最高冠位である織冠であり、被葬者はほぼ藤原鎌足にちがいないと報道された。ただし669年に死んだ鎌足の墓だとすれば、周辺から出土した須恵器が7世紀前半のものであるなど、現在も確定はしていない。


西国街道(さいごくかいどう)

西国街道(さいごくかいどう)

古代律令制下で、都と西国諸国を結ぶ官道であった山陽道の後身で、西国街道は通称。中世になお山陽道とよばれていたか、すでに西国街道の通称が起こっていたかは明らかでない。江戸期宿駅制度の整備に伴い特に六宿駅、すなわち山崎宿(大山崎町・島本町)・芥川宿(高槻市)・郡山宿(茨木市)・瀬川宿(箕面市)・昆陽宿(伊丹市)・西宮宿(西宮市)が設けられていた京都から西宮の区間を指して山崎通(やまさきのみち)といい、これが公称であった。
「平家物語」「太平記」「足利季世記」「信長公記」など各時期の軍記で、この街道の諸部分を経由して軍勢が往来した記事は枚挙にいとまがない。また江戸期には、西国大名の参勤交代に利用され、大坂を経由しない脇街道であったため費用が軽微ですみ、淀川左岸の水害を避けられるなどの利便により、郡山宿では元禄9年から明治3年までの270年ほどの間に年平均22.8件の通行があった。幕末には、文久三年の政変による七卿落ちで、三条実美ら七公卿が深夜芥川宿で一泊して西下したほか、元治元年の禁門の変には長州軍五千が上京、その後も幕府による長州征伐や薩長軍の東上に利用された。現在は、旧街道に並行するように国道171号線が京都~西宮間を結んでいる。


主要参考文献

平凡社地方資料センター編.大阪府の地名(日本歴史地名大系第28巻).東京:平凡社;1986

「角川日本地名大辞典」編纂委員会編.角川日本地名大辞典27大阪府.東京:角川書店;1983

水谷千秋.謎の大王継体天皇.東京:文藝春秋;2001.

森本行洋.古墳のある街並みから.[引用2006-11-10]

神服部宿禰兼行.文献史学研究室.[引用2006-11-10]

街道Walker.[引用2006-11-10]

あくたがわ図鑑.[引用2006-11-10]